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一人一人がメディア

この記事を書こうとしてから約1ヶ月経っています…笑

働き始めると(まだまだなにもできていない状態ですが)
なかなかこう言ったことに時間を割くことを忘れてしまいます。
(読んでくれている人もいるので定期的に更新しなければ)
まあそんな中でも仕事以外のアウトプットは忘れないようにしています。
もう少しでリリースできると思いますのでしばしお待ちを。

写真も撮りたいし、映像もやってみたいなって思うし、働くだけじゃなく自分の中にあるものを外に出し続けることを忘れてはいけないなと感じます。

最近の自分が情報にタッチするメディアを考えると、テレビ、Facebook、ネットニュースが主になっています。
そして思うのが、Twitterだったり、Facebookだったりからの情報の速さ。
さらに今は目撃者だったりそのことに直接に関係している人が情報を流すので、信頼性に関しても高くなってきているように思えます。

コンテンツを発信する場所(ブログやTwitterやFacebook)ができたことで、今まで観客だった人たちがプレイヤーになりました。
現在のプレイヤーは、既存のメディア(テレビ局や新聞社)とTwitterやFacebookを使う全ての人になったわけです。プレイヤー=観客になってきた感じですね。

この間もFacebookで、雑誌の紹介を編集者の人がしていた。
紹介の中には、その人の苦労や取材して感じていることまでもが込められている。
こういった広告に近い情報発信とニュースのような情報発信とでは少し性質が違いますが、一つ共通して大切なことがあるような気がしています。
それは情報を発信している個人が見えていることです。
ある情報に対して、それは正しいのか?と考えた時に、情報の出処を一つ大事な判断基準にしているところがあると思います。
今までだったら、既存のメディアの信頼性が高く大事な基準にしていました。
けれど、そこに対する信頼性も懐疑的なものになっているように思えます。
あくまでメディアコントロールされている国なので。(ここらへんの話は色んなことが言われているので調べてみてもおもしろいです)

そういった組織の信頼が揺らいだことによって出処の個人がわかっているかどうかが大事な基準になってきたのではないでしょうか。
組織を通すことで信頼性失っている部分もあるかもしれません。

各新聞社も記者のTwitterを開設するなど、情報の出処の個人を表に出し始めたりしています。
なんだか野菜を作った人を明記するのに似た感じがしますね。

まあそんな感じで近いうちに既存メディアが崩壊する可能性があるなと思っています。
それが既存のメディアがきっかけとなって起こるのか、個人がきっかけとなって起こるのかわかりません。
そしてそうなった時に、間違いなく既存メディアと国に対する信頼はどん底まで落ちてしまうと思います。
私たちが知らないでいたことが全て明かされたら…。

それが正しいかどうかはわかりません。
明かさずにいることで日本を平和にするのか、明かすことで日本を平和にするのか。
明かすことで国内で暴動が起きるかもしれません。
日本という国がなくなるかもしれません。
ただ、そういったプレッシャーを感じても、真実を伝えなけばという気持ちが強い人がいたらメディア革命のようなことは起こるでしょう。
そしてそれが正しいかどうかはわかりません。
私たちは答えのない世界に生きてるんで。
正しいかどうかなんて結果論ですから。

ちょっとした共有

時間が経つのが早いとこの前も書いたんですが
会社の研修が終わり配属されてからさらに早く感じています。

あっという間に時が過ぎて、気づいたら30代40代になってるんじゃないかって不安です。

最近は、平日に会社では新人トレーニングを定時までやって
週末は人に会ったり、スポーツをしたり、お酒を飲んだりして過ごしています。
(週末は最後のが一番比重が大きいかもしれません笑)
あとはHPを作成したり。(もうすぐ見れるはずです)
それなりに生活が充実してきたなと感じています。
それのせいかもしれません。時間が経つのが早く感じているのは。

自分はメーカーの開発職として働かせてもらっているんですが
短期的な夢が一つできたので、共有したいかなって思います。

父が働いているうちに、自分の開発したなにかしらを父の会社で使ってもらうことです。
それが稼いで返すことを一番体現できてる気がします。
初任給ももらいましたが、まだまだなにもしていない状態でもらっているものなので、ちゃんと自分が働いたという証として父には返していきたいと思います。
母にももちろん恩返ししていきますよ。

デザインという言葉とお金の使い方

なんだかんだで一瞬で1ヶ月半。
研修は金曜日で終わり、月曜から会社の配属先に着任します。
ちょっと緊張。
今日、住民票も移して、本格的に関西人になるようです。

今日は研修の間で感じたことを書こうと思います。

まず一つはデザインという言葉について。
会社の業界的にデザインという言葉がよく出てきます。
デザインってなんだろうということは、大学時代にもずっとしてきたものでした。

辞書的な意味はこちら。
国語辞典「デザイン」
1 建築・工業製品・服飾・商業美術などの分野で、実用面などを考慮して造形作品を意匠すること。「都市を―する」「制服を―する」「インテリア―」
2 図案や模様を考案すること。また、そのもの。「家具に―を施す」「商標を―する」
3 目的をもって具体的に立案・設計すること。「快適な生活を―する」

英和辞典「design」
1 (形式・構造などの)略図,見取り図,設計図;(絵などの)構図.
2 [U]意匠,図案,デザイン;[C]模様;[U]意匠術,図案法,構想法

日本にいるとデザインと設計は切り離されて使われていることが多いと感じられる。
しかし、実際には英語でデザインと言うと、設計の意味で使われる。
本来この2つは離された言葉ではないのでは?という考え方である。

こんな感じでデザインという言葉に関する議論はいろんなところで聞く。
今回の1ヶ月半で出てきたエピソードは、デザインに対して色と形だけがあれば
デザインなのだと思っている人がいて、そうではないことを伝えた方がいいのでは、という同期の意見である。
つまり、色とか形だけなんとなく美しいように作っているのではなく、そこには問題、課題があってそれを解決するために色や形を使っているのだということである。
そしてそれを、多くの人に理解してもらった方がいいというようなことであった。

自分はこれを聞いて、半分賛成かなと感じた。

デザインに対して、どのような人がどのような意味を込めて作られているかを理解してもらうこと、
それは一つのモノにどれだけ考えが込められ作られているを理解してもらうことで大切だなと感じる。
それを理解してもらうことは、デザインが軽視されがちな日本の文化を変化させることへとつながるかもしれない。(もしかしたらそれは、言葉を介さず伝えるのがベストかもしれないが。)

しかし、デザインという言葉に対するそれぞれの考え方、見方を統一することはあまりよくないのでは、と感じている。
問題、課題解決から形にするまでをデザインと言う人、モノの外見だけをデザインと言う人、設計と外見とを合わせてデザインと言う人、アートとデザインが一緒の人、いろんな人がいると思う。
そういった違いはそれぞれの興味や関心の違いにもつながるし、実際に何かを作るとなった時に注力する部分も変わってくる。
そうした時に、さまざまな価値観、注力する部分が重なっていいものができると生まれると思う。
そういった多様性があるから一人じゃできあがらない形のモノが生まれるのだと思う。

だから半分賛成半分反対なのです。

次にお金の使い方に関して。
GWは1ヶ月ぶりに関東に帰り、高校、大学の友人と遊びまくりお金を使いまくってしまいました。
(たぶんギリギリ赤字にならないかな?くらい)
そんなお金の使い方をしてたら、同期に使いすぎだろって言われてしまいました。
確かにお金使いすぎてしまいましたが、後悔というか惜しいとは思わないのです。

母から、若いうちにお金を使うことは投資だとよく言われてきました。
耳にたこができるくらい。
そうした時に投資って言葉が適切かどうかわかりませんが、
自分の周りにいる人と過ごす時間にしてもお金にしても、その投資は決して惜しいものではないのです。
それはもちろん返ってくるかといったら確証はないのですが、自分の中にははっきりと確証があるし、実際に共に過ごすその時間はこれからなかなか会いにくくなることを考えたらプライスレスなのです。

私が去年1年間でインタビューを行ってきた人の中で、「たくさんの人に悲しまれながら死ぬ。それが夢。」と言った方がいます。これを聞いてすごいなって思って。
その人は大金持ちでも誰にも悲しまれずに死ぬんだったら、100万円くらい借金あっても100人くらいの人に悲しまれながら死んだ方がマシだと話していました。
これを聞いた時にああすげえなと。もちろんいろんな人の話を聞いて、人を大切にすることを学んだのだけれど、目指すところはこれなのかなって思いました。
そう考えた時に、そういう風に人と付き合ってることで費やされる時間やお金は、最終的には目指すべき姿に近づくための投資なのかなって感じております。

そんな感じの1ヶ月半でした。
僕は意外と(?)元気です。
明日からも頑張っていこうと思います。
うぃすー。

日々が早い

こんにちは。
休日、多少会社の研修の課題をやりながらゆっくりしています。

日々が早く、この前記事を更新したのは1週間前くらいだっけと思っていたらもう2週間も経っていました。
先日は疲れからか38.8℃まで熱が上がったり、色々ごちゃごちゃしながらも奮闘しています。

会社の研修の中で、キャリアアンカーという言葉が出てきました。
簡単に言うと自分のキャリアを考えた時に、大切なことということです。
自分が卒業論文の中で研究してきたこととの共通点が多くある言葉でした。

大学を卒業するにあたって、就職するという道を選んだのは自分が一番やりたいことだったり
叶えたいことだったりができると感じたためでした。
キャリアアンカーはなんであるかを考えたのですが、結局それは自分にとって人生の中で大切なものと変わりませんでした。
多分就職を選んだ時と同じようにこれからも、夢ややりたいことに素直に選択するのだろうと思うし選択したいと思っています。

もちろんプライベートを大事にする人も中にはいて、そういう人にはなんでそうなの?と聞かれます。
自分にとってはやりたいことだから選んだものであるし、やりたいことをやり続けられているうちはプライベートが優先順位として高くなることはないと考えています。
結婚とかしたら、その人のこと優先できなくてもいいのかという話も出てきましたが、自分のやりたいことや夢がある1人の人を幸せにしたいことへと変わった瞬間が結婚する時なんだろうなと感じています。
その時までは自分の気持ちに素直でいることが一番大事なんだと思います。

そんな風に自分を顧みてる中でここだけは負けてはいけないなと感じているのは熱量だと自覚しました。
自分のやりたいことをやっている中でそこで負けたら、本当に終わりなんだと思いました。
そこだけは負けてはいけないと。

過去を振り返れば、そういう熱量で自分がやべえ敵わねえなとかすごすぎるという人たちに憧れてきました。
好きな歌手だって、スポーツ選手だって、芸能人だって、自分のなんとなく好きっていうのは結局そこに行き着くのだと思いました。
同じフィールドにそういうレベルの人がいたら、きっと超悔しいと感じるだろうなあ。

春になってしまいました

展示会が終わってからというもの、時間はあっという間に過ぎてしまいもう4月になって新生活が始まってしまいました。
それだけ楽しい2月、3月を過ごすことができました。

たくさんの人におめでとうの言葉をもらい
たくさんの人に別れが寂しいと言ってもらい
たくさんの人に餞別の品をもらいました。

これから徐々に返していかなければと思っています。

4月から拠点を関西に移しております。
会社の配属が決まるまでは確定ではありませんが、おそらく関西に住むことになりそうです。
平日は会社に行くという生活が始まっています。
徐々に社会人に染まっていくのかなと感じていますが、自分の青いところは忘れずに
いい形で染まっていければと思います。

頑張ります。