名前をつけること

なにか新しいものを作ったとき
それには名前がつけられる。

名前をつけるということを意味を与えることに等しい。
というよりは、名前をつけることでそれは個人のものではなく
集団のものになる。

ことば、というものはとても抽象的なものだと僕は思っている。
ことばは、僕のなかにあるそれと、他の人のなかにあるそれを
同じように表してしまう。

それは必ずしも一致するものではないのに。

「犬」ということばを思い浮かべてみると
犬を飼っている人は自分の飼っている犬を思い浮かべるかもしれない。
飼っていない人は近くに住んでいる人が飼っている犬や、もしくは自分が好きな種類の犬を思い浮かべるかもしれない。
ただ、犬ということばはその全てを包括してしまう。

ことばはあくまで記号で、そこにはそれぞれにある具体を少なからず排除するという性質があると考える。

こういった理由で僕はことばを抽象的なものだと思っている。

名前をつけるということは、ことばを与えるということだ。
それはそのものを抽象的に表現するということなのだと思う。
だけれども、それは他の人にも共有するにはとても重要な行為である。

名前をつけられた瞬間、それはその人だけのものからみんなのものになる。
名前をつけられるまでは、ある人の中の体験、もしかは感覚で存在していたものが
ことばによって他の人の中にも存在できるようになる。

そのことばの意味は、語感や、もしくはもともとの意味、それは日本語であれば漢字や
横文字であれば元の単語の意味、そしてモノ自体が持つ意味によって左右される。
そしてそのつけられたことばが包括するものに、その意味は行き届く。

ことばの範囲を考えるのは、大切な作業である。

こんな理由で名前をつけるという行為は重要な意味を持つのです。
意味を与え、他の人に共有するということは。

ものを作ったあと名前をつけるということを逆に考えてみる。
今あることばの意味をなすんだけれど、なんか違うモノを作る。
そのことばの意味を越えるなにか、それは新しいものなのだろう。

それは例えば携帯に対するiPhone。
確かに携帯なんだけど、携帯じゃないみたいな。
それに至ると、革新、イノベーションみたいのが起きるのかもしれない。

ペンなんだけどペンじゃない。
そんなものを作ったら筆記具に革新が起こるのかもしれない。
あるいは、PILOTのfrixionはそれにあたるのかもしれない。

ことばについて考える。

抽象と具体について考える。

名前をつけることについて考える。
つけられた名前について考える。

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