表現者について

久しぶりにCharaを聴いたら、思いのほかにはまってしまい。
ここ最近は自分のiPodからもCharaの曲ばかりが流れる。

Charaは表現者なのだと感じる。
最近、表現者という言葉を多用するのだが、
これは母がよく使う言葉だ。
BjorkもCoccoも岩井俊二も母との会話の中では表現者とされてきた。
あの人たちの歌声だったり、歌う時に感じられる魅力だとか、
上手い下手に関係なく、心の中を鷲掴みにするような「あれ」を持ってる人は、
すべてこの表現者という言葉に吸い込まれていく。

その「あれ」をCharaも持っているのだと思う。

僕の大学の学部では、世界には3つの言語があると教えられる。

自然言語。
人工言語。
デザイン言語。

自然言語とは、いわゆる日本語とか英語とかいう、人間が自然としゃべるように、書くようになった言葉のことを指す。

人工言語は字の通り、人が作った言葉のことである。
それはプログラミング言語などを思い浮かべてもらえればいい。コンピューターが扱う言語と捉えてもよいかもしれない。

デザイン言語とは、私たちが色や形を見て、音を聴いてキレイと感じるものや、形から使い方がわかるといった、
いわゆる言葉ではなく伝わるものを指す。

大学では在学中にこの3つを学ぶことを勧められる。(僕の学部は基本的に必修がないので、学ぶも学ばないもその人次第)

僕は今までの3年間学んできた中で、これら3つの言語はあくまでツールなんだと感じている。
自分の中で、誰かに伝えたいもの、アウトプットしたいものがああり、それを最適なツールで伝えることが大切なのだと感じている。
そして往々にしてこの3つの言語は重なるものだと考えている。
例えば、この文章自体は自然言語、載っけているのはウェブページ人工言語、ウェブページのレイアウトはデザイン言語いった具合になっている。
こういった3つの言語、ツールを駆使して人間は、内にあるもの、表現したいものを外に出していく。

その表現したいものとツールのマッチング、表現したいもののクオリティ、ツールのクオリティを最大限に高めている人っていうのが、
僕と母との会話の中で言われていた表現者なのだと思う。

CharaやCoccoは表現者として、歌詞というテキストの自然言語を、口から放ち人へと伝えている。
彼女たちの歌声はデザイン言語というべきなのかもしれない。発声法、声の出し方、Charaのウィスパーボイスと呼ばれる歌い方もその伝え方なのだと思う。
もしくは、彼女たちの歌声と一緒に流れる音にはプログラミングを使った人工言語が使われているのかもしれない。

母は僕の大学のことを知ってるわけではなく、こんなことを考えて表現者と言ったわけではないし、僕もそこまで深く考えていつも表現者という言葉を使ってるわけではない。
でもちゃんとこんな風に考えてみると、確かにそこにはそう思わせるものがあるのだと思う。
普段は感じたままに、ヘッドホンから流れる音に体を揺らし、時に同調して歌うけれども
たまにはこんな風に考えてみるのもおもしろい。

そしてよく思う。
表現者って羨ましいと。

僕は音楽では表現者にはなれなさそうだけど、生きてるうちに誰かに表現者と呼ばれるようなことをしてみたいなあ。

ああほんとうにうらやましい。

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