川瀬マサ江(80)

ーじゃあその写真をなんで自分の人生の大切な物として選んだの。

これはね、金婚式の時に、あの行った、の写真。
やっぱり京都に生まれてるから、やっぱり、新撰組の行く末の、あの人とも関連して、あの副隊長さんな、なんちゅう人か忘れたけど。
あの人が榎本武揚と最後の砦で、政府軍と戦って。
もう1人の人なんちゅう人、あの人は、函館、函館半島をずっと敗走して行って。
で、倒れはったところ。で、それ函館のとこやったと思うねんな。
で、そういうの見てみてな、ちょうど50年の節目で、私も、まあ、これからの生き方はちょっと考えさせてもらった。
自分自身としてはな、息子と娘がな、ちゃんと家庭持ってくれたし。
で、おじいちゃんとな2人まだ健康でいてられるし、ありがたいこととか、で、そういうの含んであったし。
その記念の写真であるんで、これからも、やっぱり明治の、そういう風なことやら、京都と関係した人がそういう風にこうなっていかはったんやら見て。
やっぱりみんなの時代に合わせ、私らは、私はや。時代に合わせて、ちゃんとこれからは迷惑かけんように生きていきましょうと思った時の写真であるわけよ。


ー深い。深いね。

深いこともないねん。


ーいやもうだって、え、もう70。

今80もうすぐ1になんねん。


ーねえ、まで生きてきた中で、それをこう感じ取った、その積み重ねを感じ取った瞬間。

で、あったと私は思っています。
で、もう、よう迷惑かけたん、おばあちゃんは自己中で。自分1人で走ってたからな。
私は、まあこんな威張ってもの言うか知らん。


私は割と恵まれてこうしたけれど、他の人、おじいちゃんやらは、陰で支えてくれてはったんやと思って。
で、言いたい放題、言いたい放題でわがままで自己中で暮らしてきたけど。
これからはもうちょっとおとなしい生きていこうかなみんなのために。
ということは、もう、孫の5人のためにも、ためにはや、ためなんておごがましいから、迷惑かけないように暮らしていきたいなあと思ったりしたことで。
その、そういうことをこう考えさせてもらった写真、時の写真であるということ。


ーなんかそれはじゃあ、50年の節目、結婚式から50年の節目ってことで考え。

そうそうそう。うん、そう。自分自身の人生を振り返る機会であって、そいでして。
で、函館いうところは、ちょっと、あの、えっと、孫が住んでて。これその孫が案内してくれてした写真なんやけどな。そういうことでした。
そいで、そいで函館いうのは、私が学生時代にあの、卒業の年に、あの北海道一周した。毎月いくらずつ、10人いや20人おったからな、20何人があの、北海道で修学旅行みたいにしような言って3年半貯めて、それで行った。
で、最初に降りた地が函館でもあって、で、大沼区やら行ったり、それから、景色が学生時代を思い出したり。まあいろんなこと、まあ函館いうところは私にとってそういう風な、あの北海道旅行の学生の時のスタートであったし。ものすごい楽しかったんやけどな。
そんなん色んなことを含めて、まあ節目の時の写真であるということで。これからもちょっとなにしようなと思った。ま、そやけど人のためになってるかどうかわからんよ。あの、ボランティアをずっとなしたり、まあ色んなことをしながら、まあ自分では、ため思ってしてても、やっぱりけっこう自分自己中で汚なって思うことはよくあんねん。
ほんで、みんなに迷惑かけてるなあとは思ってる。


ーなんかこう80年間生きてる中で、81年間生きてる中でも、色んな経験だったりとか考えさせられる機会っていうのは他にもあったと思う。だけどこれって言うのは。

まあちょうど50年、結婚50年。


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ー一番大きかった。

うん、そうそうそう。うん。
ほんで、おじいちゃんもな、これはあんま書かんでほしいけど。おじいちゃんも私が33歳の時に、ガンならはってな、胃と脾臓と、で食道まで転移してて。それでな。あの、13時間半の手術を耐えて、まさか、あのとき、時代にガンやったからなあ。
おじいちゃんが重いガンになって、37歳で。もうほとんどの人亡くなってはんのに、おじいちゃんは元気でいてはるさかい。
まあ、そういうなんも、頑張って、まあ2人ともこうして健康でこれてよかったなあと思った瞬間でもあるわけ。そんだけ。


ーそれはなんか、自分自身が考えさせられたのもそうだし、おじいちゃんと一緒にここまで、健康にやってこれた。

うん、そうそうそう。そうそう。病気、ガンで、だってあんだけ脾臓やら取ってな、あれしたけど、これたしな。
まあそれは、なぜ、どういうことかと言うたら、おじいちゃんが、なんちゅうかな。
自分の健康のために、ちゃんと、勝ち気やし、自分の登ってる階段っていうのは見せへんやろ、男っていうのは。せやろ。あんまり見せるもんちゃうやろ。本当のこというとな。
せやろ。競争社会やしな。そやからおじいちゃんはその分苦しかった。せやけど、子ども2人を助けて、あんたのためにって頑張ってくれた。そういうことな。


ーじゃあおじいちゃんと一緒に写ってるのも大きいんだね。

まあそや、写ってるしな、よかったと思って。まあそういうもんで、やっぱりまあ大事に思って。


ーその写真ていうより、その考えさせられた時間だったりとか、一緒に函館に行けたっていう経験だったりとか。

そうそうそう。そうそう。うん、そうそう。あの、キレイな自然でな、ずーっと函館をこう通ったんやけどな。まあそういうところです。

ーでは、今喋ってたけど自分の夢とか、こう目標だったりとか、達成したいことでも。

今の。今の夢。
私な、もういつでもな、余分になるかもしれんけどな。
まあどきっとさせられた時は、おじいちゃんの手術のときな。んで、もう、もうそやけど、息子と娘がおるからってぐっとこらえて来たけど、で、2人とも大きく。
で、この間、息子が遭難しはったろ。
大地震の時。な、私には一昼夜わからんかったんやな。あの3時半過ぎにな。地震が2時40分。
あの孫が電話して、お父さん、自動車乗って行った。自動車で3時半の時点で、元気やでってメールくれはったきりでまだあれしないけど。僕たちが探してあげる。僕と兄ちゃんと2人でお父さんを探し出すから、おばあちゃんは京都でおとなしい待ってて。孫が、おとなしい待っててな言うて。それから一昼夜、連絡なくて。
それ、で、翌日の何時半くらいかしらに、息子から電話かかってきて。ああ元気やて言うて、で、自動車置いてきたわってこう言うて、流されたんやと思う。て、言うて、したときあったやろ。あの時もどきっとさせられた。


な。うん。ほいでもう、まあそういうことやらあるけれど、ほんでもう、息子からあのまあ、元気になってくれてな、電話が、あの手紙をくれた。
これはな、それはどんなことが書いてあったか言ったら、おかげさんで元気になったと。そやけど、東北の地震の跡は、復興には20年はかかると思うし、自分は捧げたいと思ってると自分を。という。
そやから京都帰れんぞいうことやったんやろうけどな、別に私はそれでええ思ってる。男はどこでもしたいとこで、したいことをするいうのが、私の。そやから5人の孫がな、私は、自分のしたいことができるものを持つ言うことが一番幸せや思ってんねん。私自身もな。


ー自分はどうして。

いきたいか。これから私、とちゃうな、老人は野菜たくさん食べて、たくさん食べると、量、変な話、75歳から以降は神様が食べるものをな、決めてはんのや。一品ぴゃーっと食べた人は病気して早死にする。少しずつ分けて食べてる人はな、長生きするってテレビで聞いた。聞いた、それはちょっと比喩やけどな。あんまりたくさん食べとんて、野菜中心のな健康を守って、おじいちゃんと2人で健康を保つようにしていきたいことと、どっちかが病気したら片方が見る。


な、子どもに世話にならないで、子ども、子どもや孫の世話に絶対、絶対って言ったらおかしいけど、ならないようにして、1人になるまで。
で、1人になったら、まあ自分があれやったら、まあ施設に入るか、1人で生きてる間は暮らすか、どっちかして。
もうやっぱりな、できるだけ次の世代とか、その次の世代にあの、あれを残さないように生きていこうと思うてんのやけれど。頭がぼけてくるからな。何をいまは判断がまだちょっとだけ残ってるし、できるけれど。
ぼけたら何言うかな思ったりして、やっぱり人間の欲、なんていうのかな、欲望というか気持ちとか言うのんは、もう心底、底の底の気持ちはやっぱりなあ、押しつぶせへんもんがあるのかもしれんし。


もう、ものはたくさんあった方がいいし、人にニコニコしてもらった方がいいし、いいもん、おいしいもんとかいいもん食べたりしたいなあとか思う気持ちが、やっぱりみんな持ってはるのかもしれんけど、私はあんたたちが来た時に一緒に食べようやとか。
今でも孫はたまたまこっちきたけどな、いや、もう、おじいちゃんはな、大学1年、卒業まで、もしここにおるなら、僕89、そんなんまで生きてられへんなって思ってはる。
思ってはんねん、そやからそういうことになれんように、心配、周りによ、心配かけんようにって、ものすごい健康に気つけて、自分でリハビリの体操やらやってはる。私も時々、リハビリの、時々じゃなくて毎日、隠れてリハビリの体操をやって。
先生がくれはってん。つま先立ちせよとかな、こんなんしてな、バレエ、あのバレエの人とか、柱もってこんなんしてるやろ。
あれとおんなじダンスを家で柱持ってせいと書いてあんねん。で、それをやってな、隠れて、いないところで。そんなんしながら、健康に留意して、あのできるだけ寝たきりということにならないように、生活は気つけて暮らしてますいうことと、野菜たっぷりでたくさん食べてへんねん。
そやし、そうやって自分の、あの、生活ありかたは絶対守って、誰にも左右されず、そういう基本的な生活態度は。


で、旅行したい、お金を使って、みんなでどっか知らん行って食べに行っていうのは、あんまり2人とも。
個人主義者のとこがある、こんな考えが、自分の行きたいとことかな、あのそういう風な。
そやから今、今やっぱり、昔の人が歩かはったとこ言うのかな歴史にこう出てくる、ああいうところ涼しいなったらちょくちょく行こうかなって思ってる。


ー健康に気をつけて生きていくって。

気をつけるいうこと、そういう風にできるだけ生活をしたい思ってる。
今のとこ、今のとこ血液検査とかあんなんはパス、オールパス。そんで81歳なってな、オールパス母さんだけ言うて、お医者さんに言われて。まあ、そやから健康に生んでくれはった人が、ことが、私の親がな、生んでくれはったんが。


ーで、健康に生きていきたい。まあおじいちゃんと助け合って。てところとまあ歴史。

の、そうや。歴史に、昔の、昔歩かはった人いうのかな、とこを、ちょっと、ちょっと歩いてみたいなと。歩くというか行ってみたい。
で、やっぱり、そうや。それが。というのが。


ーなんだろうその、2人で助け合って生きていきたいていうか、子どもたちに迷惑かけたくないってなんで、なんでそういう気持ちなの。

気持ちてか。私、私そんな世話してもらうの嫌いなんや。わかるやろ。だから自分で。
私は、ちっさいころからかな、自分で自分を守る癖がついたんのかな。太秦でも跳ねっ返りやったし。


ーじゃあ、おじいちゃんとおばあちゃんと、おじいちゃんと助け合ってっていうのはやっぱり、ずっと一緒にやって来たから。

それはもう基本。そうそうそう。


ーもう54年。

うん。そうもう。いつもけんかしてんねん。
もうそやけど、言うことはよう聞いてくれはる。あの、健康に関しては。
それ以外のことは全部あかんねん。
私は勝手もんやし、君の言う通りしたらみんな迷惑がらはると言われてるし、そいで私もそうやあ言ってんねん。


ーそう考えると、おじいちゃんとこうやってきたのってすごい大きいし、この写真もそうだし、これからもそうしていきたいと。

そうそうそう。うん、これからもな、助け合うていきたいなとは思ってる。
おじいちゃんよう言うこと聞いてくれはんねん、食べることに関しては。食べることと、あと考え方とかは、おじいちゃんは長男やからな、やっぱりな、ちゃんとしたあれ。私は上にもいるし、下にもいるさかい一番やんちゃでやってきたしなって思う。


ーなんか言い残したことはない。自分のこの宝物って写真とか、夢もさっき話したことについて。

宝物、うんうん。
今な、今度な、11月にな、10月か11月にな。あの、震災があって、あのその年の11月っていうか半年余り経った時に、あの女川で、女川に行って。
で、今度やっぱ東北の人ほんまにかわいそうで悲しい。で、また息子はもう元に戻って、ちゃんと生活できてるしあれやけど。
ほんとにあれ、ちょっと気にかかってるし、もう一回だけまあ子どもが助かったとこで、助けてもうて、な、とこやから。
もう一回だけ、もう、行き納めにして、もう。おじいちゃんもう自信ない言わはんねん。なんべんも行く自信がない。
で、今度それを10月か11月に、もうそれで二泊三日くらいの。

もうなあ、ほんまにあの時はショック受けてたよ。まあ助かったしな。あのよかったけどな。


私が一番大きいことは、どんなこと、これは関係ないけどな。
おじいちゃんが大病しはってな、朝8時半頃に、違う、8時半くらいにずーっと手術室に行く時に、お医者さんが、執刀医のお医者さんが、な!川瀬さん、もうこんなもん盲腸に毛が生えてるだけの手術やからな、お昼なったら帰らしてあげるわ言わはって。
ほんで、で、亡くならはったお父さん、おじいちゃんのお父さん2人で手術室の前で、朝入った人はみな帰って行かはんねん。
もう12時半くらいで、3時間か3時間半で。ほいで、おじいちゃんだけは帰ってきはらんかって。
最初に入った内科医の先生が、僕あんなきつい思ってへんわって、ショックを受けて出てきはって手術室から。


ほいで、5時半ごろにな、ちょっときてください言わはんねん。
そいで外科部長さんと執刀医の人がこれからね、お宅のご主人をね、ここまで胃全部きれいにとったけど、ほんでリンパ腺も取っていったけど、もうここまで切り、まだ切り口にがん細胞があるからな食道のこっち側の内側にあるからな。ここまで切り開くかどうか迷ってますんです言うて。
ほんなこと言わはったかっても、私迷ってます言わはったかっても、私に上切ってもええともよう言わんし、先生にお任せいたします。
それから、5時半にそう言われて、ほいで、胃をばーっとあれして、また先生もちょっと一服や言うてはった。
7時半くらいになってから、川瀬さん、川瀬さんラッキーですよマイナスの箇所になりました言わはって。な、ほいでマイナスに全部、がん細胞の。ほいで手術、あんときは生きた心地せん、朝からものなんにも食べてはんかったんや。
ほんで、あの、ずっと縫合してくれて。ほんで、その先生がええ先生やったしか知らんけどな。


この間おじいちゃんが検査な、定期検査受けたら、違う先生に、お宅のご主人の手術したんわな学会に出たや、学会に。
ほれ、なんて言うの、別に、手術の技法についてのことで出てきてな。学会誌に、学会に、そこの部位のとこが出てきて。
今見せてもらったけど、すごいきれいな手術ですわ言わはった。ほいで、ええ人に出くわしたんかな。これの技術にな。あれもやっぱり運かもしれんわ。
それだけ手術に慣れた人がやってくれはって。で、それがラッキーやったんやな、ラッキーて、ええ先生に当たった。
で、いい時は、ものが成功するとき言うのはな、条件いっぱいあるけれど、それが全部整ってる時なんや。たまたま。たまたまえ。こっち整えさそう思うてるのと違うて、ああ、あの人が来てくれはって助かって、この人がこうしはって助かってとかな。

そういうものやな思うてる。おじいちゃんの命の助かり方見てると。
そやから、あの、なんか知らんけど、一生懸命まあそれぞれが誠意を込めてその場の、しとかんといかんねん。全部歯車やからな、大きなもののな。どの人間も。
しとかんといかんけれど、ちゃんと自分は動かしといたら、どっかで、自分は直接、まあどっかがうまくいくんだなとこうな、条件の一つとなっていくのかもしれんなという感じは持ってる今でも。手術成功したの見ててな。
で、おじいちゃんの努力もあんねん。風邪一つ引かれへんかったもん。もう、ものすごい、それもラッキーやったな思って。そんな感じ。



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