見ざる言わざる聞かざる

後輩が風邪か何かが原因で、しばらく声が出なかった。
が、最近治ったようで。
よかったです。

そんな彼女が、ツイッターで
声でなかったときはつらかったけど、言いすぎちゃう自分とか悪態つく自分とかおしゃべりな自分を感じると、声なんて出なきゃいいって思っちゃう。
と。

僕たちの人間関係であれば、毎回のようにうまく行くようなことはなく(うまく行く人は純粋にすごいと思う)
言い過ぎもあるし、本当には思っていないことを思わず言ってしまうかもしれない。
それでも僕たちは、音を発することを身体的構造として授かった。
コミュニケーションとして必要な要素の一つなのだ。

しかし、社会にはそのコミュニケーションとして必要な要素の一部を失った人や
授かることのできなかった人もいる。これは現実。
そういった人たちに、社会はどのような見方をしているだろうか。
おそらく今は「かわいそう」という一言だ。
僕はそれは何か違うと思っている。
もちろん、そういった障がいを持つ人に対して配慮というのは必要だが、
それすらもままならないまま、かわいそうで終わっている。

1人1人生き方がある。
顔も違う。声も違う。性別も違う。髪の毛も違う。肌の色も違う。性格も違う。
授けられたものは1人1人違うということを理解し、障がいを持つこともそのうちの1つだと思えないだろうか。
もしかしたら障がいという言葉がいけないのかもしれない。
それが1人1人の身体的個性である。

障がい者心理学の世界では、障がいのことを忘れようとすればするだけ
忘れることはできず、それを克服するには、障がいと向き合うことが重要であるとされている。

ものに対する見方というものはある種の文化であるからすぐに浸透するわけではないが
少しずつ、社会にこういった見方が浸透していくことによって
障がいを持った人自身も一つの個性だと自分の障がいを受け入れることができる可能性が
高まるのではないかと思っています。

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