自分の認知の外へ出ること

育って来た環境、暮らしている環境の中で
私には私なりの世界の見え方ができたように思える。

親の影響や学んで来た内容、所属した組織に影響されながら
それは形作られてきた。

今ある世界の見え方、つまり私の認知の仕方というのは
何通りもあるうちの1つで、正しいとか間違いだという感覚は
必ずしも他の人とは一緒ではないということをわかっておかなければならない。

またそのように凝り固まった認知の仕方では
日々の中で起こる事象や目に入るニュースを
1つの視点からしか見ることができず、本質に近づけないこともある。
単純な問題や課題であれば、少ない視点でも近づくことができるが
私たちが生活している中で起こる様々な事象や課題は
非常にたくさんの背景や問題が絡まり合っていることがほとんどである。

学問を学ぶというのはこの視点を増やしていく感覚に近いのかもしれない。








現代美術や大自然の中に入ることは
ある種、自分の認知を飛ばすこと。

普段、スマホの画面に目を通し
大都会のビルの中で過ごし
PCの中に自分の考えを表現していく中で失われる身体性。

その真反対に身を投じることで
私は身体を取り戻していく。

その経験の中で、琴線に触れるものを
拾い集めることで、私は私を知覚していく。

そして、それまでの見方とは
全く違う見方で世界を認知する。

河本一衣

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